2011高校野球・速報

甲陽学院38回生の江嵜健一郎と申します。


夏の全国高等学校野球大会兵庫県予選が始まった。蝉も鳴き梅雨が明け、高校野球予選が始まっていよいよ夏本番である。

母校甲陽学院が伊丹北相手に朝10時からの第一試合に出場すると聞いて楽しみにして応援にかけつけた。まだ10時前と言うのにガンガン照りである。屋根つきのわずかなスペースがあったのを幸いに腰をおろした。

肝腎の試合の方は、1対9でコールド負けとなった。2回表に味方のエラーがらみで先取点を2点取られたのが堪えた。3回裏に2塁打に送りバンドで3塁へしっかり送り、1点返した。試合の興味は残念ながらそこまでだった。

先発に代えて出したエースナンバーのピッチャーが不調、傷口をさらに広げたのは不幸だった。次々繰り出す投手が追加点を許し、わが母校は1回戦で姿を消した。

試合そっちのけにスケッチしていた。隣に座っていた老婦人が何か冷たい物でももらって来ましょうか、とご親切に声をかけてくださるハプニングに恵まれた。お孫さんが甲陽学院の野球部レギュラーで、これが最後かもしれないからと孫に言われて出てきましたとご丁寧に話をされた。おじいちゃんの方は、試合に集中。声をからして声援を続けておられた。

応援席ではレギュラーを外れた選手と父兄のお母さん方がメガホン兼用の応援グッズをカタカタ打ち鳴らして熱心に最後まで応援していた。野球の基本はなんといっても投手力である。ピッチャ―を鍛え直して1年後に元気な姿を見せて欲しい。

たまたま座った席の左手前方に明石城の「ひつじさる櫓」が見える。その右すこし奥にたつみ櫓が見える。右に少し移動した先に見える小さな塔が「子午線」である。

明石城出口に立つ掲示板に城の由来が書いてあった。元名4年(1618)城主、小笠原忠真が徳川将軍秀忠の命により幕府の援助と岳父、姫路城主、本多美濃守忠政の協力を得て築城したとあった。

明石城を出たところに、大洋漁業創業者、中部幾次郎翁の銅像があった。氏は今の明石市内の生まれ、明石中学建造費の半額を寄付したとあった。当の明石中学は、夏の甲子園で25回投げ合った明石・中京のその明石中学である。

JR明石駅から新快速電車に乗り帰宅の途に着いた。(了)